2018年2月19日月曜日

⑦ 食べることは生きること?

⑥命の使い方?からのつづき


自分がもしかすると死ぬ、と思ったとき

自分の死より誰かの死のことを考えた方が

楽だったからか…逃げたかったからか…。

ただ、誰かを巻き込んで死ぬことは

間違っていると言う思いだけは強くなりました。

命は”生きるためだけに”使って欲しい。

そう思うことで自分自身のことも

そう思えたのかもしれません。



骨髄検査の結果が出るまでの約一週間

絵の仕事でお世話になっている人に

どう伝えるか、移植の方向もまだのこって

いる時点ではどちらに転ぶかわからない状態だったので

とにかく結果を待つしかなことだけは確かで

その間一番大切に思っていたのは

”食べること”でした。



入院1日目の昼食は前に書いた通りですが、

夜は普通に病院食でした。内臓が悪いわけではないので

お粥が出るわけでもなく普通の病院の夕食なのですが、

あまり食べられませんでした。明日の朝は少しは美味しく

食べられるようになっているかなと願いつつ

不安と戦いながら目をつぶって

とにかく眠りに集中しようと頑張った

初めての夜でした。


朝はご飯におかずが2品ついて汁ものがあって

+250㏄の牛乳パックがついていました。

ご飯(白米)があまりおいしくなかったので

パン食はあるのか聞いてみると

”ある”とのことだったので次の日から朝はパン食に変えて

もらいました。

次の朝、食パン2枚が白米の代わりにやってきましたが

おかずに汁物の形態は同じなので、まずはお汁とおかずを

最初に食べきってから、気持ちを入れ替えて。

もう一度最初からパンと牛乳に缶コーヒーを混ぜて

ちょっとした喫茶店のモーニングの心持で頂くのが

朝のルーティンになっていきました。



夜も寝てるような寝てないような・・・。

9時には消灯になるので明るくなる4時くらいまでは

暗闇の中です。とにかく朝が早く来て欲しいと

こんなに思った日々はなかったかもしれません。



2017年4月3日月曜日

⑥命の使い方?

⑤その時、浮かんだイスラムのこと・・・。からの続き。
長らく書き込みができずにいました。体調が悪かったわけではないので大丈夫です。




初めての入院で思うこと。

僕の場合は、とにかくその時抱えていた仕事に穴をあけたくないが7割。

肝心の病気のことは1割で

あとの2割がイスラムのことでした。

(なんで、自分の家族のことが浮かばないんだ!とお叱りを受けそうですが)

病気のことが1割しかないのは病気の名前が大きすぎて

先生にお任せするしかないと言うことだったと思っていますが

問題は2割の”イスラム”のこと。


何故イスラムか? 

それは25年前までさかのぼります。

絵を描く道を進もうと思ったきっかが湾岸戦争でした。

それまでの僕にとって”中東”はあまりにも遠い場所だったと思います。

石油と砂漠のイメージでしかなかったところに起きた

生まれて初めてリアルタイムで突き刺さってきた”戦争”。

それも、あまり日常的には自分のことと何か関係があると

思っていない遠いイスラム教の国だったことが

より潜在意識のなかに入り込んできたのかもしれません。

そこで失ってゆく夢や命を想った時に自分が自分の夢や人生とどう向き合うかを

深く考えるきっかけになりました。


そして今回、自分が死ぬかもしれないと思った時に

浮かんできたのがイスラムの人達のこと。


いつも考えていたわけではないのです。

病気で倒れる前の年にベルギーで。

そのあとパリで自由な命が亡くなりました。

どちらも自分がスケッチをしながら回った街。

自由な空気を感じた場所。

優しくしてもらった人たちがいた場所。


そんな場所で起きたテロが続いたあと、

病気を通してリアルに”死”を自分の中に意識した時

じぶんの命を犠牲にした命の使い方ってあるのだろうかと・・・。

何かの思いを遂げるために命をつかう?

同時に他人の命も奪う?

それはどういうことか?

その先にあるものが何なのか?

そんな疑問がぐるぐる、ぐるぐる

自分の中の死と交錯しながら頭の中を回っていました。






2016年10月1日土曜日

⑤その時、浮かんだイスラムのこと・・・。

④死ぬような思いagain・・・。からの続き。



入院1日目の最大の山場は、骨髄検査

腰の骨に針?ニードル?を刺して骨髄から直接血液を採取。

痛さについては個人差があると思いますし

もしこれから受けるかも知れない方に

あまりにもマイナスのイメージをお伝えするのも嫌なので

検査後の事を書かせてもらうと

その痛さはその時だけでした。採血が終われば

何もなかったのと変わりありません。

その後の精密検査も僕の場合は常に腕からの採血で

多いときは6本くらい、上手な看護師さんなら平気です。

結構なれてきます。

女の人の場合はきっと痛みにも強いと聞くので

骨髄検査自体へっちゃらと言う人もいるかもしれないですね。


採血が終わって結果が出るまで1週間。

通常の血液検査は何時間もかからないで出たりしますが

こちらの検査は病院では出来ないので東京の専門機関に送る

という話だったと思います。

その時の説明が、一番はじめのブログに書いた

慢性骨髄性白血病の急性転化の可能性あり。

それは自動的に”かなりやばい”と言うことでした。

骨髄移植も十分考えないといけない状態です。

ただ、なぜか”不安”や”ショック”に襲われるというよりは

気になるのは絵のことばかり・・・。

とにかくもらった”絵の仕事に穴をあけたくない”が7割。

あとの3割のうち病気のことは1割で、あとの2割がなぜか

イスラムのことでした・・・。


つづく。

2016年4月11日月曜日

④死ぬような思いagain・・・。

③生きている証?からのつづき



初めての入院が決まってからは検査に次ぐ、検査。

救急搬送されたその日から色んな検査が始まりましたが

一番きつかったのは肺活量の測定ような?検査。

ポイントは息を吐き切った後、

どれくらいもう一息を吐き出せるか。

それも自分のタイミングではなく、

看護師さんが”ハイ!”と言うまで吐き続けないといけない。

その日の僕の体調からいえば、

死にそうになって病院に来たのに

”殺す気か?”と叫びたくなるくらいの検査で、

吐き切った息の後に肺から絞り出す息の量が問題らしく・・・。

その日の僕の結果はあまりにも貧弱なもので

到底データとして使えるものではなく・・・

ただただ疲れ果て・・・運ばれた病院で

もう一度、倒れそうになってしまいました。


あとで主治医から聞いた話ですが、

その肺活量の検査は、その後飲むことになった

白血病の特効薬とされる

薬の副作用が出た時に、

僕の体が耐えることができるか?を

前もって確認しておくもので

その検査の結果しだいでは、

いま一番効果のある薬が使えないこともあったそうです。


結果的に、いまこうしてブログの更新ができているのは

その薬に耐えるだけの体力は残っていたと言うことで・・・。

自分の体ではあるけれど、

別物のような体そのものに・・・感謝です。




つづく・・・。

2016年3月1日火曜日

③生きている証?

『②救急搬送』からのつづき。


話は大きな病院に救急搬送された直後に戻ります。
病院の処置室に入れられ、また採血され、その後の検査(CTなど)や入院の書類にサインが必要なのですが意識はあっても動けないので口頭で説明をうけてサインは妻がしてくれました。すぐに入院が決まって一番気になったのが仕事のこと。抱えていた仕事の絵がまだ全然描けていなかったのです。病室で絵が描けますか?と看護師さんに聞くと、『描きましょう、描きましよう、病室以外にも自由に使える部屋があります』と言う返事にとても安心したのを覚えています。結果的に絵が描けるだけの体力と気力が戻ったのは退院2日前くらいでした。それでもその時の看護師さんの対応に感謝しています。その時の自分にとっては本当に絵が描ける状況なのかどうかより、”描こうと思えば病院の中でも描ける”という気持ちの支えを貰ったことのほうが大きかったのですから・・・。

看護師さんから、そのあと受ける検査の説明が終わったのはちょうどお昼前。入院も決まって後のことは病院に任せるしかない状況になったことへの安心感?からなのか・・・それとも本能的に何か食べないといけないと思ったのか・・・動くことも出来ず何も食べれずに救急搬送されて来た直後なのに、看護師さんに『昼からは検査が続くので何か食べておきますか?』と聞かれ『ハイ食べます』と即答していました。
妻に病院の売店でサンドイッチを買ってきてもらって処置室のベットの上で3口は食べたでしょうか、たぶん自分は白血病で・・・もしかしたら危険な状態なのかもしれないと思いながらもその3口が”生”への執着の証のようなものだったのかもしれません。
そんなぎりぎりの状況でしたが、可笑しなことがありました。妻が飲み物も一緒に買ってきてくれたのですが、それがシークヮーサーのジュースでした。元気な時でも選んだことのないセレクトに妻の動揺があらわれていたのだと思いますが、思わず『なんでシークヮーサー?』と突っ込んだ記憶があります。でも悲壮感いっぱいの中、ふと笑えた瞬間でもありました。
つづく。



2016年2月18日木曜日

②救急搬送

『①ブログ・公式サイトを更新できるまで・・・。』からのつづき。


体に全く力が入らなくなって救急車で70キロほど離れた大きな病院まで運ばれました。

途中、救命救急士と地元のかかりつけの病院との会話の中で自分が白血病の疑いがあることを知りました。意識はちゃんとあったのですが、その病名に対してびっくりするというよりも『そうなんだ・・・』と言うぼんやりとした感覚だっとような気がします。

前々日に自分で”この疲労感は何かおかしい”と思って近くの病院で診てもらったのですが、その時の採血の結果がその日の朝に出ていたのが幸いして、直ぐに大きな病院に救急搬送してもらえたわけです。

その時の採血の数値は白血球が正常値の100倍、赤血球・ヘモグロビンは正常値の5分の1程度でしたから酸素不足になって体の筋肉が動かなくなるのも当然です。後から知りましたが、貧血状態がゆっくり進むと体がそれに慣れ(高山トレーニングのようなものらしいです。)いよいよ『もう無理』と言うところまで来て動けなくなったようです。意識が飛ばなかったのが不思議です。

入院当初の主治医の見立てでは、白血球の多さと、この極度の貧血状態から慢性骨髄性白血病の※急性転化の可能性もあると言うことで、骨髄検査の結果がわかるまでは”危ない”かもしれないと思いを抱えたまま不安な夜を迎えることになりました。(2015年7月1日:入院1日目)

つづく。

※急性転化(慢性骨髄性白血病の病状が悪化した状態。この状態になると病状によっては治療ができないこともあるそうです。)

PS:これを読んで頂いている方にご心配をかけたくないので追記させて頂きますが
現在は無理はできないのですが、”薬”のお陰でほとんど元気だったころと変わらない生活ができていますのでご安心ください。




2016年1月16日土曜日

①ブログ・公式サイトを更新できるまで・・・。



白血病 の診断を受けてから初めてのブログと公式サイトの更新を2015年9月30日しました。
出来るだけ悲観的にならないように心掛けて書かせて頂きましたがどうだったのか・・・心配は尽きません。

その時は描けなかったことや、同じ病気に関わった方の役に立てばと言う思い。また、僕自身ネットでいろいろと情報を得ま したが自分が欲しい情報がなかなか手に入らずマイナスな情報を知ることが怖かったこと・・・。

同じ白血病の患者さんでも、それぞれによって治療方針も状態も違います。結局自分の欲しい情報に出会うまで探 し続けるしかありませんでした。

色んな情報がありすぎと困るのも事実ですが・・・自分にあった(自分の病状にあった)プラスの情報を見つけられたときに はホッとしま した。

僕自身が欲しかった情報・・・それは『こんな状態でしたが今は大丈夫なようです!』と言うような希望のもてる情報でし た。

正確で的確な情報はお医者さんに聞くのが一番です。

ただ、希望的、楽観的は情報はなかなか手にはいりませんでした。
そういう意味で、このページが希望的で楽観的な情報になればと願っています。そのためにも自分自身がちゃんと元気 に復活し ないとだめですね。。。
頑張ります!!!(笑)
(安心して下さい。今はかなり元気です!)



前置きが長くなってしまいましたが・・・

救急車で運ばれたのが7月の中旬でした。
それまでは毎日元気に力仕事も出来ていました。(作業小屋を新たに作り始めていました。)

それが、動けなくなる3日ほど前に急に体調が変化しました。それまで普通に持てていた木j材がやけに重たく感じられ始め て、階段を上るのも息が上がるようになりました。はじめは”久しぶりの重労働に疲れが溜まってきたな・・・”ぐらいでし たが、その疲労感がだんだん酷くなり救急搬送される前々日には、お風呂に入ったのはいいのですが、ほんの2,3分湯に浸 かっただけでのぼせて顔も蒼白になっ てフラフラになってしまいます。
その後、一晩眠っても倦怠感は取れず、3日目の夜には食べる元気もなくなり眠れないくらいの倦怠感。そして次の朝、体を 自分の力では動かせず、(力が入りません)トイレにも起き上がれなくなり救急搬送されました。



生まれて初めての入院。
初めてのことばかりでした。
でも、天使がいっぱいいて
本当にありがたかったです。
次回へつづく・・・。